「まちぼうけ」と言う歌が好きである。
ある日せっせと働いていたお百姓さんが、かたわらにあった木の切り株にぶつかって死んだうさぎを見て、「ラッキー! 働かなくても食べ物が手に入るじゃん!」と有頂天になり、ひたすら次のうさぎがぶつかるのを待つと言うとてもシュールな童謡である。
私は怠け者なので、いつも何か「おいしいもの(食べ物に限らず、仕事も)」がやってこないかと手ぐすね引いてソファやら畳やらに寝転がっている。だから、家にいる時は玄関ばかりが気になる。「親戚がおいしいメロンを送ってくれないだろうか?」「たまたま通りかかった映画監督が窓越しに私を見ておいしい役をくれないだろうか?」「可愛い女の子(昔の知り合い)が「来ちゃった」とか言ってスキヤキの材料片手に現れ、おいしいご飯とその後のおいしい展開が待っていないだろうか?」などなど、期待ばかりが膨らんで日々の生活に身が入らない。
もちろん、玄関に対する気持ちは期待ばかりではない。不安や恐怖といった感情もかき立てられる。同居している私の弟はいつも空き巣の心配をしていて、在宅中にも玄関の鍵をかけていないと怒られる。確かに、トイレや風呂に入っているスキを突かれたら、玄関先に置いてある置物の一つや二つ(我が家でいえば招き猫と可愛い鹿のぬいぐるみ)くらいは簡単に持ち去ることができるだろう。ましてや、ヘッドフォンをしながらバイオハザードをプレイしていた日には、背後でタンスを引っ掻き回されても気がつかないし、気がついたところで、「ゾンビだったらどうしよう」と言う恐怖でまず振り返れまい。
こんな風に玄関に期待や恐怖を抱くのは、玄関が見えないからではないか。つまり、木製にしろスチール製にしろ、扉が外界を遮断しているからに違いない。見えないことほど想像力を刺激するものはないし、玄関は人の出入りが必ずあるから、何かしらの物音や気配がしたりしてますます妄想に現実味を添えてくる。「逆に暗闇を凝視してしまうタイプ」の怖がりの私からすると、だったら玄関は終始開けっ放しにしておけば、何がくるのか丸見えだからいいじゃないかと思うのだが、やっぱり冬は寒いし、夏には蚊が入ってくるのでそういうわけにもいかない。
こう考えて行くと、玄関に魔除けのお札やらシーサーやらを設置する気持ちもよく分かるし、閑静な住宅街には必ず一軒は存在する「七人の小人の石像に玄関を守られている家」が住人には朗らかな気持ちを与え、他人に薄気味の悪さを与えるという一挙両得の性質を兼ね備えていることがはっきりする。2メートルを超える「猿の惑星」に出てくるえらい猿の木像を玄関先に立たせている個人住宅を見たことがあるが、もはや、その家だけでなく、その町内全てを守護している風格があり、とても感心した。
翻って、我が家の玄関はどの様にすればいいのか。魔除けや小人もいいが、できれば、「まちぼうけ」のうさぎがぶつかった切り株の様なトラップを仕掛けたいと考えている。おいしいものが入った宅配便を受け取るには、近所の金持ちと同じ名前の表札を掲げておくのは良いかもしれない(もちろん、お中元とお歳暮の時期限定)。素敵な女性と出会うには、女子トイレの看板を出しておけば一人くらい迷い込んでくるだろう。紙粘土で作った石仏と賽銭箱を並べて置いておけば、たやすく小銭稼ぎができる。けれど、そんなトラップを張り巡らせば玄関に警察の方がやってくるのも当然なので、実行せずに考えるだけにして、玄関にそわそわする毎日を送ることにする。