世界には、家にトイレがない人が約九億人もいるそうだ。

「全住人共通トイレしかない安アパート」とか「汲み取り式の田舎の家」だとかは聞いたことがあるが、さすがに「この家にトイレはありません」などという人には、現代日本では滅多にお目にかからない。いや、いました。すいません。私の三十数余年の人生の中で一人だけいました。ふとしたことで知り合った、前歯が3本ほどないジャズミュージシャンのおじさん(もうほとんどおじいさん)の家に遊びに行った時、彼の家にはトイレがありませんでした。

厚木基地を脇目にどんどん山の中に車は進んでいった。運転席のおじさんは、妻子と別れて山奥に移り住んだ経緯をとうとうと語ってくれたが、今の私の記憶にはほとんど残っていない。家の目の前に川が流れていて、そこがトイレなのだという。二十代の私は、「にわかカルチャーかぶれ」にふさわしく、つげ義春を熟読していたので「ああ、『紅い花』のワンシーンのようだ!」などと少しは心を震えさせたりもしたが、結局は「夜中はどうすんだ」と言う実際的な恐怖にとってかわられた。そして、おじさんの手作りインスタントラーメンを食し、真昼の太陽にきらめく川の中に分け入り、ズボンを濡らさないようにしながらお尻を川に突っ込んで、用事をいたした。

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    お尻が悪い友達のトイレにあった「うんこ千羽鶴」。

素晴らしい開放感だった。

よく、トイレやお風呂に入っている時、人は瞑想的になり、すごいアイデアなどがひらめくなどというが、大自然の中での排泄行為は、羞恥心や自尊心を気にしなければ、狭い個室では味わえない一体感が得られる。そう、一体感。大自然と溶け合うような感覚。自分の排泄物をバクテリアが分解し、それが植物を育て、牛が食み、そのお肉を私が食べると言う、果てることのない食物連鎖の無限軌道が私の口から肛門を一瞬にして駆け抜ける感覚……。涙したくなるような瞬間だったが、むき出しのお尻を川に浸して泣いている姿を誰かに見られれば、「悪化した痔を冷やしている人」と思われるかもしれないので、ぐっと我慢した私であった。

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    我が家自慢のトイレの天狗タオル掛け。ヴィレ◯ンに営業中。

ちなみに、冒頭の九億人のうち、五億人はインド人らしい。これは、合点がゆく数字だ。なぜなら、インドはゼロを発明し、仏教を、ヨガを生み出した国だ。個室のトイレなんかで瞑想していたら、そんな世界的な発想は生まれまい。ガンジス川にお尻どころか体ごとつっこみ、全身全霊で排泄しながら雄大な思想にふけって欲しい。私たちも、自宅のトイレで自らの人生を深く内省し、充実した生き方を模索したいものだ。まあ、ガンジスの流れに比べたら、水洗便所のせせらぎで考えられることはたかが知れているだろうが。

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    こっそり隠れて利益を独り占めするという意味。まさに僕です。

劇団子供鉅人 益山貴司

masuyamaa

これまで、子供鉅人のほとんど全ての作・演出を行う。
お化けと女の子に怯える幼少期を過ごした後、20世紀の終わり頃に演劇活動を開始する。
作風は作品ごとに異なり、静かな会話劇からにぎやかな音楽劇までオールジャンルこなす。
一貫しているのは「人間存在の悲しみと可笑しさ」を追求することである。

劇団子供鉅人公式サイト