わたしはこの部屋で日々、わたしという役を生きている。登場人物はおもに、夫と犬と、わたし。演出、わたし。観客も、おもにわたし。ここは、芝居の稽古がない日のほとんどを家の中で過ごす、わたしによる、わたしのための舞台だ。このコラムは、そんなわたしの生活のありようを、月々の季節の風習とともに紹介するコラムです。理想を描いたリノベーションコラム『正直なすみか』その後、のおはなし。
ある日、マスクがなくなった。コロナウイルスのせいでマスクが品薄だという話は、日々のSNSで目にしていたはずなのに、そのことが「本当」だと理解したのは、自宅にあったマスクのストックがなくなったその日だった。知っていたのに、近所のドラッグストアに買いに行った。そして思った。「あ、本当にないんだ」
憧れの「花粉症」
自分の身に降りかかるまで、その苦しみを理解できない。わたしはそういう愚かな人間だ。
むかし、親戚の伯母が言う「花粉症」というものに、憧れを抱いていたことがある。伯母家族は京都に住んでいて、親戚のなかではいちばん裕福で、佇まいに品があったし、能登半島の田舎者であったわたしからすると、すべてが洗練されて見えていた。ぐずぐずと、真っ赤になるほど鼻をかんだあとの、山積みのティッシュさえも。だから小学校の同級生が鼻をぐずぐずしながら「あたし鼻炎ねんて」と言ったときには、大人っぽくてカッコイイ! などと思ったりしていた。でも、今ならば分かる。冬の寒さが和らぎ、生ぬるい空気とともに感じる、鼻のむずむず、目のかゆみ。一生止まらないかと危ぶむほどの、くしゃみ発作。そして、永遠の鼻水。かつて憧れた「花粉症」に、ついにわたしも罹ってしまった。本格化して、5年ほど経つだろうか。今ならば分かる。「花粉症」、これは、最悪だ。
愛に泣く、マスクのお裾分け
まずは、マスクを失ったわたしの、こちらのInstagramをご覧ください。
わたしとしては、Twitterのタイムラインに流れてきた「緊急時の手作りマスク」を試しに作ってみた(そして失敗した)だけだったのだけれども、この投稿が、思った以上に友人知人に憐れまれ(そして笑われ)、「マスク送ろうか」という連絡を、何人かからもらった。本当にありがたくて、ひとの優しさが心に染みて、涙が出た。そしてその中のひとつが、ばんちゃんからのリプライだった。
私もこんなに作ったよ。雑やけどあげるで。 pic.twitter.com/oExRew1QSJ
— 伊藤えりこ(ばんちゃん) (@momoeriko_ito) February 28, 2020
ばんちゃんは、大阪にいた頃に出会った役者の先輩で、この国でいちばん面白いナチュラル・ボーン・コメディエンヌなのだけれども、このことを語るにはこのコラムのキャパシティが不足しているので、今回は割愛する。要するに、ばんちゃんが手作りのマスクを作っていて、わたしはそれを真似したいと思った。話はそういうことである。
ばんちゃんを呼んだ
「作り方を教えてください」と、ナチュラル・ボーン・コメディエンヌを家に呼んだ(何だかんだあって、わたしもばんちゃんも今は東京で暮らしている)。マスクの作り方は、インターネットで調べるとたくさん出てきたし、ひとりでも出来そうだったけれども、ばんちゃんが来て教えてくれるほうが楽しそうだと思った。コロナウイルスの影響で、観にいく予定だった舞台も中止、あるはずだった稽古も中止、そのうえ外出自粛のムードの中で、わたしはすっかり人恋しくなっていたのだった。
久しぶりに会うばんちゃんに、ほんのり緊張しながらわたしが準備をしていると、ばんちゃんが唐突に、にこやかに、家に入ってきた。
「ちょっと! 急に入ってきた! ピンポン鳴らしてくださいよ!」
「だって開いてたで?」
「いや開けといたけども! でも鳴らすんですよ普通は!」
などと言いながら、わたしたちは騒々しく再会した。まったく愉快だった。わたしの愛らしい緊張を返してほしい。ひとの家って、鍵が開いてたら勝手に入ってもいいの?
マスクもない、ガーゼもない、マスク紐もない
マスクを作ろうと決めてから、材料を買おうとして驚いた。マスクにするのに相応しいとされている「ダブルガーゼ」の布も、マスクに付けるのに相応しい伸縮性をもつ「マスク紐」と呼ばれるゴムも、すっかり品薄なのだった。わたしは仕方なく、渋谷の手芸店で「あるのはこれくらいですね……」と店員さんが申し訳なさそうに出してくれた、ぜんぜん趣味ではない、ほっこりした蝶々柄のダブルガーゼを買った。ガーゼは内側にくるし、見えないからいいことにする。外側の布も、同じお店でてきとうに選んだ。白いマスクに飽き飽きしていたのかもしれない。妙に派手な柄を手にとっていた。
マスク紐(ゴム)は、ばんちゃんが少し持ってきてくれた。わたしはついに買えなかったのだけれども、ずっと前にフライングタイガーでただ「色が可愛い」という理由で買ったズパゲッティ(Tシャツヤーン)があったので、このやんわりとした伸縮性は案外いいのでは、と期待していた。
ノーズフィットワイヤーのリサイクル
マスクの作り方をインターネットで調べたときに、マスクの中の「ノーズフィットワイヤー」をリサイクルするというのを見て感心した。使用済みマスクに切り込みを入れると、中からあの、ちょうどよく鼻の角度に曲がってくれるワイヤーを取り出すことが出来る。それを、手作りマスクにも活用しようと言うのだ。世の手芸部の諸先輩方の知恵はすごい。
しかし驚くべきことに、このノーズフィットワイヤーは、結局のところ使わなかった。うまいこと入れ込むだけの裁縫技術がわたしになかったためである。こんなに意気揚々と取り出したのに。次に作るとき(きっと技術が向上している)のために捨てずに取っておくことにした。
雑×雑=雑
ばんちゃんが「型紙はひとにあげてしまった」と言うので、インターネットにある型紙を出力しようと思っていたのに、うちのプリンターが壊れていて出来なかった。なので、「直でいったらいいんちゃう」「直でいきましょう」と、ばんちゃんが持ってきてくれた完成品を型紙がわりに線を引く。「大体でいいですよね、使うの自分だし」「うん、いけるいける」と、互いの雑さを諌めることもないまま、わたしたちのマスク作りは進んでいった。
「自分で作れる」という安心
マスクを作ろう、と思った理由は、「自分で作れる」という安心が欲しかったからかもしれない。「マクス送ろうか」と言ってくれた友人が本当にマスクを送ってくれたおかげで、今、家にはひとまずのストックがある。けれども、わたしは怖くなってしまった。あの「あ、本当にないんだ」という感覚を思い出すと、怖いと思ってしまう。使い捨てのマスクは、使い捨てゆえに、使えば確実に減っていく。せめて自分で洗って清潔を保てるマスクがあればいいし、それを自分で作ることが出来ればなお安心だ。そう思った。
マスクだけではない。何でもそうだ。「自分で作れる」「作り方を知っている」というのは、頼もしいことであるし、そういうものが多くて損をすることはない。たとえば、人類がとつぜん石化して、文明を失った3700年後の世界にひとり放り出されたとしても、作り方さえ知っていれば、貝殻から石鹸を作ったり、ねこじゃらしからラーメンを作ったりすることができる。あるいはとつぜん中世ヨーロッパの平民に転生してしまったとしても、油と薬草と塩でシャンプーを開発したり、パンケーキのレシピを売ったりすればゆくゆくは貴族に成り上がることだってできる。知識や技術は、いつだって身を助けるものなのだ。
人類は石化しないかもしれないけど、するかもしれない。未知のウイルスが蔓延して、この先何年もマスクなしでは外出できない未来だってあるかもしれない。だから、覚えるだけ覚えておこう、マスクの作り方を。という気持ち。それでなくとも、自分でものを作るのは、楽しいし。
おのおののマスク紐
マスクの大切な性能として「耳が痛くならない」というのがある。市販のマスクでも、重要なポイントとしてパッケージでアピールされている。マスク紐の伸縮性や太さが適切でないと、耳が痛くて長時間つけていられなくなってしまうものだ。わたしは、当初の予定どおりズパゲッティ(Tシャツヤーン)で作り、マスクの端の紐を通す筒を作り、調節できるようにしたいと考えた。ばんちゃんは、持ってきたマスク用ゴムを、わたしと同じズパゲッティで包むように縫い、シュシュを作る要領でくしゅくしゅの太い紐にしていた。
ここがなかなか細かい作業でずいぶん時間がかかってしまったけれども。久しぶりに会ったばんちゃんとはお喋りが尽きることもなく、ずっと楽しかった。肩は、すごく凝った。
マスクができた
製作開始から3時間ほどかけて、やっとマスクが完成した。先にできたばんちゃんが得意げに急かしてくるので、わたしは最後のほうがずいぶん粗い縫い目になってしまったけれども、何はともあれ完成した。ずいぶん派手なマスクである。問題であったマスク紐も、ばんちゃんのはくしゅくしゅと柔らかくてつけ心地がよかったし、わたしのも、付けた状態でピタッと調節できるようになったので悪くないと思った。紐は筒に通してあるだけだから、後でマスク紐が手に入れば付け替えることも出来る。それに何だか、意味不明に垂れ下がったこの紐も可愛いように思えて、いったん切らずにこのまま置いておくことにした。もう少し工夫すれば、ここに新たなファッション性を開発できるかもしれない。
本当は、今回のマスク作りの前に、初めてのミシンを買ったのでした。ずっと前から欲しい欲しいと思っていたミシンを、ばんちゃんの「ミシンあったらすぐ作れるで(マスク)」の一言で、ついに購入を決め、撮影日よりずいぶん前に、届いてはいた。届いてはいたが、間に合わなかった。わたしの学習が。当日出してみたものの、ミシンの基本機能を学んでいるうちに日が暮れそうだったので、あっさり断念したのだった。わたしたちの手仕事を、ミシンはずっとダイニングテーブルから見守っていた。仕事が落ち着いたら、ぜったいに相棒として使いまくるから。どうか待っていてほしい。
来月にはきっと、桜の花が咲いている。
楽しいコラムが書けるといいな。
それでは、また卯月に。
Photographer : つかだふ(Twitter @tsukadacolor)
中古を買ってリノベーション by suumo
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「リノベーションと暮らしのカタチ」の事例として、表紙/特集ページにてQ本家が紹介されています。