文鳥が死んでしまった。
7年7ヶ月の間、ずっと一緒にいた文鳥。
動かなくなった文鳥を見て、子が何度も「ぶんちょう ぬいぐるみに なっちゃったの」と言っていた。子にとってははじめての親しい存在とのお別れだ。
その日が来るまで文鳥自身が毎日お手入れし続けた羽毛はまだ生きているみたいにふわふわでハッとするぐらい美しかった。
みんなで順番にその羽を撫でてお別れをした。
文鳥と暮らすことを決心する前、もし自分のせいで文鳥が死んでしまうようなことがあったらどうしようと思うととても怖くて、ずっとインターネットで人が飼っている文鳥の写真を眺めているだけの時期があった。
文鳥という存在が恋しすぎて、小鳥のいるカフェや小鳥屋さんに文鳥を見に行ったこともあった。とてもかわいかった。
眺めているだけで幸せな気持ちになれるぐらい、文鳥という生き物はかわいかった。飼うのは責任重大だから、こうして遠くからかわいい姿を眺めていようとずっと思っていた。
でも、一緒に暮らすのは全然違った。
文鳥が私たちのことを知っている。
別の部屋にいると、私たち(主に夫)のことを呼ぶ声がする。
大好きなパートナー(夫)が帰ってくると弾むような声を上げ、大急ぎで迎えにいく。
部屋中自由に飛びまわっていいのに、ずっと夫にぴったりくっついて過ごしている。
大好きな人の手の中で、安心しきってぺたんこになって眠ってしまう。
知らない人を見ているときの小鳥とはまったく表情も仕草も違う。夫を見ているときの文鳥は、恋する乙女の目をしていた。
1年経つ頃にはもう、小鳥屋さんで見た、私たちのことを知らないかわいい小鳥ではなかった。
誰もが家族やパートナーにしか見せない顔があるみたいに、私たちは文鳥の特別な顔をたくさん知っていった。
人とも動物とも、我が子とでさえも、親しくなるのには時間がかかるけれど、いったん親しくなってしまうと、それはもう、特別で愛おしくて、お互いを知らなかった頃になんてもう戻れないのだった。
お別れが怖くて出会うことさえも避けていた時期があったのだけれど、別れがどんなにつらくても、それを何倍も上回るぐらい、出会えてよかったという気持ちでいっぱいだ。
出会えてなかった場合の人生なんて想像もつかない。我が家に来てくれてありがとう。これからの人生で何度も何度も思い返すだろう、本当に楽しくて特別な7年7ヶ月でした。
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